1985年夏、舞台は東ドイツの工業都市デッサウ。 |
そんなとき、マインハルト委員長率いる「娯楽芸術委員会」は彼らが路上でダンスをしていることを知り、アメリカ生まれの非社会主義的なブレイクダンスを禁止しようと動き出す。ある日他のダンスグループとダンス・バトルをしていたフランクたち4人は、国家警察に逮捕されてしまう。警察とシュタージ(国家保安省)の取り調べに対し、「ブレイクダンスはもともとアメリカの貧しい人々や虐げられた人々の反抗の運動から生まれ、反資本主義の思想を持っているのだ」と説得したフランクの機転が功を奏し、ダンサーたちはほどなく釈放される。しかし、フランクの父は息子の反社会的なブレイクダンスに猛反対。親子の間には言い争いが耐えないようになってしまう。 |
さらに勢いを増すブレイクダンスに対して、 「娯楽芸術委員会」が打ち出したのは、"ブレイクダンスを社会主義化する"ということだった。フランク、アレックス、マティナ、ミヒェルのチーム"ブレイク・ビーターズ"は委員会の前でダンスを披露し"アクロバティック・ショーダンス"を踊る"人民芸術集団"として認められる。 委員会から派遣された専属コーチによって、各自の得意技を披露するブレイクダンスではなく、一列に並んで同時に同じダンスを披露させる"社会主義的に統制された"ダンスチームへと作り上げられていくブレイク・ビーターズたち。しかし、専用バスで東ドイツ中の国営クラブを巡業し、どんどん有名になっていく彼らには喜びの方が勝っていた。まるでロックスターのように華やかで憧れの的となったブレイク・ビーターズだったが、いつの間にか国家体制の操り人形となり、他のダンスチームから軽蔑されていく。 |
1980年代、社会主義政権下の東ドイツで巻き起こった“ブレイクダンス”ブーム。多くの若者が路上で自由に踊るダンスに熱狂する中、政府は西側の文化を厳しく規制するもその勢いは止まらない。そこで打ち出された政策は、ブレイクダンスを“社会主義化”することだった!フランク率いるダンスチームは国認定の芸術集団として人気を博していくのだが…。
本作は、東ドイツで巻き起こった社会現象とダンサーたちの実話を基に、「自由」と「夢」を追いかけることの尊さを訴えたエンターテインメント作品として、ドイツ国内外で多くの反響を呼んだ。『ダンス・レボリューション』、『ステップ・アップ』など、これまでのダンスムービーとは全く異なる、新しい“社会派ダンスムービー”が誕生した!
1984年に東ドイツの映画館で上映されたニューヨーク・サウスブロンクスのBボーイたちを題材とした米映画『ビート・ストリート』(※)は世界でヒップホップ文化が流行するきっかけを作った。当時の東ドイツでも大流行し、何十回も映画館に通ってはスケッチをしてダンスの動きを真似する人たちが続出したという。路上にはダンスを踊る若者たちが溢れたため、革命に発展することを恐れた政府は路上で踊ることを禁止し、違反した者は逮捕するように。ダンスチームにアーティスト・ライセンスを与え、テレビやステージで披露させて完全に管理下に置くようになった。しかし、サークルの中で1人ずつ自由に踊るブレイクダンスに対し、全員同時に同じ動きで踊るよう強制されたため、本来のブレイクダンスに魅了されていた若者にとっては自由を奪われるような感覚であった。
本作ではこのようなダンサーたちの葛藤に焦点を当て、“好きなもの”に真っすぐ取り組むことの大切さをシンプルに描き出した。
※映画『ビート・ストリート』
1984年アメリカで公開。ブレイクダンス、DJ、ターンテーブル、グラフィティなど、ヒップホップ黎明期の映像を収めた劇映画。アフリカ・バンバータ、クール・ハーク、クール・モー・ディー、グランドマスター・メリーメル、ジャジー・ジェイなど、初期ヒップホップの重要なアーティストだけでなく、映画『ワイルド・スタイル』で知られるロック・ステディ・クルーも出演するなど、世界でヒップホップ文化が流行するきっかけとなった。
ブレイクダンスに出会い、プロのダンサーになるまでを描く本作では、ダンスを踊れる役者であることが何よりも重要だった。そのため、ダンス経験者を条件にオーディションを実施し、約800名の中から主要キャストが選ばれた。ゴードン(主役のフランク)とオリバー(アレックス役)は若手役者ながら、それぞれダンスチームに所属しており、5年ほどストリートダンスをしているダンス経験者。ゾーニャ(マドンナのマティ役)はベルリンの有名なダンススクールに幼い頃から通っていた元キッズダンサーだった。セバスチャン(ミヒェル役)はダンスの世界大会で何度も賞をとるなどドイツでは有名なダンサー。キャスティングが決まってからは約9ヶ月トレーニングをして、スタント無しのリアルなダンスシーンが作り出された。
劇中のダンスの振り付けを担当したのは、伝説のダンサーとして世界的に有名なドイツ人B-BOY “STORM"(ストーム)。80年代当時のダンスを忠実に再現しつつ、今のダンススタイルも取り入れてアレンジするなど、随所で彼の手腕が光る。
★ゴードン・ケメラー 1986年、ドイツ・アイゼナハ生まれ。高校卒業後は調理を学び、その後ベルリン芸術大学で声楽、ダンス、演劇を学ぶ。2007年、ポツダムにハンス・オットー劇場の助監督として1年滞在した後、ライプチヒ音楽演劇大学のハンス・オットー研究所で4年間の演劇研究を開始。修了前にケムニッツ劇場の舞台で演じ、並行してベルリン演劇大学でエルンスト・ブッシュ監督の研究を始めた。2011年以降、舞台を中心に演技経験を積み、短編映画など6作品に出演するが、本格的な映画出演は本作が初となった。 “Filmkunsttagen Sachen-Anhalt”では新人賞を受賞。 |
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★ゾーニャ・ゲルハルト 1989年、ベルリン生まれ。5歳から芸術施設“Friedrichstadt-Palast”の子どもアンサンブルで11年間ダンスを踊る。その後、2006年の人気ドラマ「Schmetterlinge im Bauch」の出演をきっかけに、数々のドラマや映画に出演し人気を博す。2010年にスタートした大人気TVシリーズ“Danni Lowinski”や“SOKO Stuttgart”など、ドイツ国内のドラマでの活躍が目立つ。映画では『Sommer』(2008年)、『Die Wilden Hühner und das Leben』(2009年)、『Türkisch für Anfänger』(2012年)などに出演し、本作は映画出演5本目となった。 |
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★オリバー・コニエツニー 1987年、ドイツ・ホンブルグ生まれ。2008年、ミュンヘンの演劇学校オットー・ファルケンベルクに入学し、2011年に修了。2011年、短編映画『Shaytan』に初出演し、続いて映画『Schuld sind immer die Anderen』(2012年)に出演。その後、“Der Staatsanwalt”や“SOKO Stuttgart”といった人気TVシリーズにゲスト出演を果たした。映像と並行して、ミュンヘン室内劇、イェナ・シアターハウス、エアランゲン劇場のような設立されたさまざまな劇場で演技経験を積んだ。また、ブレイクダンスも10年以上続けており、彼が結成したグループ“PlanB”でも活躍中。2014年に出演した本作と映画『Wir waren Könige』はいずれも国内の映画祭にて評価を得、オリバー・コニーツニーも奨励賞のノミネートを果たした。 |
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★セバスチャン・イェーガー 1987年、ベルリン生まれ。B-Boy“Killa Sebi”として知られ、国内および国際大会や世界の様々なショーに登場。ブレイクダンス・ワールドチャンピオンの称号を4度手にし、世界最高のトップアーティストと名高いドイツのダンスチーム“Flying Steps”の一員として活躍している。2007年、Red Bull Battleを獲得して世界チャンピオンになり、同年、スペインでヨーロッパ・チャンピオンのショーパフォーマーとなる。2012年にはIBEでスーパー・ソロを獲得し、1対1のカテゴリーで世界チャンピオンとなった。 そのスタイルは非常に衝撃的で独特なフットワークとフリーズが組み合わさったもので大きな注目を集めている。また、ベルリンのブレイクダンス・チーム“B-Town Allstars”の最も重要なメンバーでもあり、2006年と2013年にはドイツの年間最多勝利を獲得し、国際的な舞台でも様々な賞を獲得した。 |
監督:ヤン・マルティン・シャルフ(Jan Martin Scharf) 1974年生まれ ドイツ・ケルンに生まれる。 1998-2004 ニューヨーク・フィルム・アカデミー、ケルン・メディア・アーツ・アカデミー(KHM)で学ぶ。 卒業制作作品「TRUTH OR DARE」(2004年Arne Noltingと共同制作)で数々の国際賞を受賞。 作家としても勢力的に活動。 2005年 ショートムービー「DER BAUM」 2005-2010年 TVドラマ「ALARM FÜR COBRA 11」内のエピソード多数 2009年 TVドラマ「TOURISTEN IN GEFAHR」内エピソード"IK1" 2014年 映画「DESSAU DANCERS」 2014年 TVドラマ「WEINBERG」 <ドラマ受賞情報> 2016年、下記2作品でドイツTVドラマ賞 Deutscher Fernsehpreis受賞 TVドラマ "Weinberg / The Valley"(脚本/監督) TVドラマ "Club der Roten Bänder"(ドイツ版Red Band Society) (※ドイツにおける2大ドラマ賞) |
- 本作を撮るきっかけは? そのきっかけというか、僕の中でテーマは2つあるんだ。 1つ目は、自分が12歳のときドイツに入ってきたブラックミュージック、ヒップホップミュージック、ブレイクダンス、ストリートダンスなどのカルチャーについて描きたいと思っていたこと。 2つ目は、「成功するために、どれくらい自分に妥協できるか」ということ。誰かが成功したら、それに対して「お前妥協したな」とか非難する人がいるよね。でも、成功のために譲歩したり受け入れたりすることは悪いことじゃない。アーティストにとっては特によく語られるテーマだから、東ドイツの80年代のサブカルチャーと合わせて描きたいと思ったんだ。 - 80年代当時のサブカルチャーブームについて 70年代のパンク、90年代のテクノのように、80年代はヒップホップが何より新しくて、みんな夢中になっていたよ。僕は西ドイツに住んでいたから、ヒップホップのレコードを探したり、路上でブレイクダンスを踊ったりすることは難しくなかった。東ドイツに住んでいた親戚を年に1度は訪れていたけれど、西とは全く違っていたね。ただ、映画『ビート・ストリート』は東ドイツの映画館でも上映されていて、「50回は観に行ったよ」と言う人も多かった。当時はYouTubeもビデオもなかったから、動きを知るために劇場でスケッチをしている人がたくさんいた。劇場がまるで大学のようだったんだ。 - 東ドイツでのブレイクダンスを取り巻く環境について 当時の東ドイツでは路上で踊ることが禁止されていて、実際に逮捕者も出ていた。政治指導者は12〜18歳ぐらいの若者たちが路上で踊ることによって、ある種の革命が起きてしまうことを警戒したんだ。社会主義システムの中では自己表現することも脅威になるからね。政府は少年たちの欲しいものを与え、ダンスの練習場所を提供し、トレーナーを付けるようになった。この時代にブレイクダンスの指導者なんていないけど、社会主義思想の人間なら誰だって良かったのさ。ブレイクダンスの基本はサークルの中で1人ずつ自由に踊るものだけど、東ドイツではダンサー皆が同じ動きを同じタイミングで踊るようにさせたんだ。 - ブレイク・ビーターズのようなチームが実在した? 政府からアーティスト・ライセンスを与えられたダンスチームが15〜20チームほどあって、彼らはテレビやステージで公式に踊ることが出来たんだ。リサーチした中では、軍事基地で何千もの軍人の前でカラフルな衣裳を着て踊ったって記録もあった。ただし、この映画でテレビの生出演中にズボンを脱いだシーンはフィクションだけどね。政府が完全に管理していたからこんなことは出来なかったようだけど、気持ちとしては反抗心もあったと思うんだ。 - この映画を通して伝えたかったことは? 「やりたいことがあったらやろう」ってことだね。若い人には特にそう言いたい。「好きなことをやる」ってことは本当に大事なことだと思うんだ。 |